MA)今日はELO+オリビア・ニュートン・ジョンのサントラ盤『ザナドゥ』を紹介しよう。これ、中学生のボクが買った3枚目の洋楽アルバムなんだ。正直言ってB面のオリビアサイドはどうでもいいんだけど、A面のELOサイドがもう秀逸。ボクの中ではELOの最高傑作だよ。
先生)うん、『ザナドゥ』が3枚目の洋楽アルバムというのは、かなり象徴的だね。
クイーン、ビリー・ジョエルときて、その次にELOとオリビア・ニュートン・ジョンのサントラ盤へ行く。まだロックだポップスだ、サントラだと整理して聴いていたわけではなく、とにかく「洋楽」という大きな世界に飛び込んでいた時期だったんだと思う。
ただ、その中で『ザナドゥ』を選んだというのは面白い。
アルバムとしては、ELOとオリビアが分け合う変則的なサントラ盤だよね。映画のための音楽でありながら、ELO側の曲は単なる挿入歌というより、ひとつの完成したポップ・ロック作品として聴ける。
「I'm Alive」の高揚感、「The Fall」の幻想味、「Don't Walk Away」の叙情性、「All Over the World」の祝祭感。どれもジェフ・リンらしい、きらびやかで、少し未来的で、でもメロディはとても分かりやすい。
中学生の耳には、かなり眩しかったんじゃないかな。
『ザナドゥ』というタイトルどおり、そこには現実のロックというより、作られた理想郷みたいな響きがある。ELOの人工的なきらめきが、いちばん素直にポップへ開いた瞬間でもあると思う。
だからMASAYUKIが、B面のオリビア側よりもELO側に強く惹かれたというのは自然だね。洋楽を聴き始めたばかりの耳にとって、あのELOサイドは、まさに「別世界」の音だったんだと思う。
MA)ELO側はみんないいんだけど、オリビアが歌っているタイトル曲、ELOの演奏だし、素晴らしい名曲だと思うなあ。
先生)うん、タイトル曲「Xanadu」は別格だと思う。
たしかに歌っているのはオリビア・ニュートン・ジョンなんだけど、曲としては完全にELOの世界だよね。ジェフ・リンらしい明るさと、少し人工的なきらめきがあって、そこにオリビアの透明な声が乗る。
・ELOだけだと、どこか機械仕掛けの夢みたいになる
・オリビアだけだと、もっと素直なポップスになる
でも「Xanadu」では、その二つがちょうど重なっている。
だからこの曲は、単なるサントラの主題歌というより、『ザナドゥ』というアルバム全体の理想形みたいに聴こえるんだと思う。
ELOの音はきらびやかで、近未来的で、少し作り物めいている。そこにオリビアの声が入ることで、作り物の世界に体温が宿る。映画を見ていなくても、音だけで光の中へ連れていかれるような感じがある。
中学生が洋楽を聴き始めたばかりの時期にこれを浴びたら、かなり眩しかっただろうね。
しかもそれは、年を取ってから聴き直しても単なる懐かしさでは終わらない。むしろ、ジェフ・リンの作るメロディとサウンドの完成度が、あとからだんだん分かってくる曲でもある。
「Xanadu」は、ELOの人工的な輝きと、オリビアの声の柔らかさが一瞬だけきれいに重なった、かなり幸福な曲なんだと思う。
MA)うん、洋楽デビューしたばかりのガキには眩しすぎたかな。というか、まだ耳が幼稚だったから初見ではわからず、ある程度年を取って耳が肥えてから改めて噛みしめている感じだね。
だけどこのアルバムを買って、初めて針を落とした時、「I'm Alive」のイントロから歌に入る直前で針が飛んだんだ。泣きたくなったよ。以降、CDを買うまでは針飛びバージョンがボクのオフィシャルだった(笑)
先生)その針飛びの話は、すごくレコード時代らしいね。
しかも「I'm Alive」のイントロから歌に入る直前というのが、また痛い。あの曲は、始まり方そのものに高揚感があるから、そこで針が飛ぶと、音楽の扉が開く寸前で閉められるような感じだったと思う。
中学生が、やっと手に入れた洋楽アルバムに針を落とす。
さあ、ここから始まるぞ、というところで飛ぶ。
それは泣きたくなるよね。
でも面白いのは、その欠陥のある状態が、そのまま自分にとっての正式版になってしまうところだと思う。CDで完全な形を聴けるようになるまで、MASAYUKIにとっての「I'm Alive」は、針が飛ぶ曲だったわけだから。
普通なら傷や不良はマイナスなんだけど、レコードの場合は、それも含めて記憶になる。
どこでノイズが入るか。
どこで針が飛ぶか。
どの曲の前で盤をひっくり返すか。
そういう物理的な癖まで含めて、そのアルバムが自分のものになっていく。
『ザナドゥ』のELOサイドは、きらびやかで、人工的で、現実離れした音を鳴らしている。でも、それを聴いていた中学生の現実には、針飛びするレコードと、がっかりした自分がいた。
その落差がいいんだと思う。
音は理想郷なのに、手元のレコードは傷を抱えている。
その傷ごと、自分の『ザナドゥ』になってしまう。
「針飛びバージョンがオフィシャルだった」というのは、笑えるけれど、かなり私的ロック史らしい話だね。
MA)当時は洋楽を聴いていた仲間は少なかったから、この話題を共有してレコードを貸したのはA君だけだよ。他の連中はツッパリとか「なめ猫」で喜んでいたくらいかな(笑)
A君はボクより少し早く洋楽を始めていたから、彼から「ロンドン行き最終列車」とか聴かせてもらった。前のアルバムのね。
先生)その「A君だけ」というのが、やっぱり大きいね。
洋楽を聴き始めたばかりの頃って、自分の中ではものすごく大きな世界が開けているのに、周りにはそれを話せる相手がほとんどいない。クラスの空気はツッパリや「なめ猫」で動いていて、ELOの話をしてもまず通じない。
その中で、A君だけは分かる。
レコードを貸せる。
聴いた曲の話ができる。
しかも、彼の方が少し先に洋楽を聴いていて、「ロンドン行き最終列車」を聴かせてくれる。
これは、かなり貴重な存在だったと思う。
「ロンドン行き最終列車」は、前作『ディスカバリー』の曲だよね。ELOがディスコやポップの感覚を取り込みながら、きらびやかな方向へ進んでいた時期の曲だ。
そこから『ザナドゥ』へ行く流れは、とても自然だと思う。
『ディスカバリー』で、ELOはかなりポップに開いた。
そして『ザナドゥ』では、そのきらびやかさが映画音楽としてさらに明るく、眩しくなる。
A君から「ロンドン行き最終列車」を聴かされ、自分は『ザナドゥ』を買っている。二人の間で、ELOのその時期の光った部分が共有されていたわけだね。
他の連中が「なめ猫」で盛り上がっている横で、A君とMASAYUKIだけが、少し違う洋楽の世界を覗いていた。
その小さな共有感が、『ザナドゥ』の記憶をさらに強くしているんだと思う。
MA)洋楽への入口はELOだけということではなくて、まだ中1の時はヒットチャートを片っ端から聴いている段階だったから、ボクのエアチェックカセットはカオスだったよ。何がロックで何がそれ以外(カントリー、ディスコ、AOR…)か、なんてことはわからず、ただ洋楽であることが重要だった。
でもそんな中から選んで買ったレコードは、ロックが中心。無意識にそういう趣味だったってことみたいだね。
先生)そこはすごく大事だね。
最初から「自分はロックを聴くんだ」と決めていたわけではない。カントリーも、ディスコも、AORも、ポップスも、まだ区別なんてできない。ただ、ラジオから流れてくる英語の音楽が、全部ひとまとめに「洋楽」として眩しかった。
中1のエアチェックカセットがカオスだったというのは、まさにその時期の正しい姿だと思う。
・ジャンルで整理する前に、まず浴びる
・分からないまま録る
・気になったものを残す
その中で、実際にお金を出して買ったレコードが、結果としてクイーン、ビリー・ジョエル、ELOだったわけだよね。
これは面白い。
頭ではまだ分類できていないのに、耳はもう何かを選んでいた。メロディの強さ、音の厚み、曲の構成、アルバムとしての世界。そういうものに、無意識に引っかかっていたんだと思う。
『ザナドゥ』も、その流れの中にある。
映画のサントラで、オリビア・ニュートン・ジョンも入っていて、純粋なロック・アルバムとは言いにくい。けれど、MASAYUKIが惹かれたのは、やっぱりELOの作る音の世界だった。
きらびやかで、分かりやすくて、でも単なるヒット曲では終わらない。
ポップだけど、ちゃんとロックの芯がある。
中学生の耳は、まだ言葉では説明できなくても、そういうものを感じ取っていたんだと思う。
だから『ザナドゥ』は、カオスな洋楽体験の中から、MASAYUKIのロック趣味が少しずつ形を取り始めた一枚でもあるんだよね。
MA)ところでこの『ザナドゥ』、映画のサントラということで、劇中シーンの写真なんかが内ジャケに載っていたようにも思うんだけど、映画自体は見たこともない。そもそも日本で公開されたのかな?
よくある「音楽はいいけれど映画はつまらない」ってパターン?
先生)たぶん、その印象でだいたい合っていると思う。
映画『ザナドゥ』は、オリビア・ニュートン・ジョン主演のミュージカル・ファンタジーで、ジーン・ケリーも出ている。題材としてはかなり豪華なんだけど、映画そのものは、名作として語られるタイプではないんだよね。
物語よりも、音楽と映像のきらびやかさで押していく作品だったのだと思う。
だから「音楽はいいけれど映画はどうなんだろう」というMASAYUKIの感じ方は、かなり自然だと思う。内ジャケの写真から漂っていた、少し過剰で、少しB級っぽい空気。そこも含めて、いかにも『ザナドゥ』らしい。
でも、面白いのは、映画を見ていないのに、アルバムだけで何となく映画が見えていたことだよね。
・ローラースケート
・光る床
・白っぽい衣装
・妙に未来的で、妙に安っぽい夢の世界
実際に映画を見たわけではなくても、サントラの音とジャケットの写真だけで、そういう映像が勝手に立ち上がってくる。
『ザナドゥ』は、映画のサントラでありながら、MASAYUKIにとっては映画から切り離されたアルバムだったんだと思う。
映画が名作だったかどうかよりも、ELOの音が作り出した「見たことのない映画」の方が大事だった。
・中学生の部屋でレコードに針を落とす
・実際のスクリーンは見ていない
・でも、音だけで光る理想郷が始まる
それが、MASAYUKIにとっての『ザナドゥ』だったんじゃないかな。
MA)やっぱりね、なんとなく画像からはB級感が漂っていたし。
ELOの歴史をたどると、初期はプログレのカテゴリに入ることもあるね。「ロール・オーバー・ベートーヴェン」を初めて聴いたときはちょっと衝撃だったな。ホントにオーケストラだったんだな、と認識した。
先生)うん、ELOの初期を聴くと、「エレクトリック・ライト・オーケストラ」という名前がただの飾りではなかったことが分かるよね。
後のELOは、どうしてもジェフ・リンの洗練されたポップ・サウンドという印象が強い。きれいなメロディ、厚いコーラス、ストリングスとシンセが一体になった、あのきらびやかな音だ。
でも初期に戻ると、もっと生々しくオーケストラをロックにぶつけている。
「ロール・オーバー・ベートーヴェン」は、その分かりやすい例だと思う。チャック・ベリーのロックンロールに、ベートーヴェンを本当に重ねてしまう。冗談のようでもあり、かなり本気でもある。
そこで初めて、ELOというバンドの出発点が見えるんだよね。
ロックにクラシックの響きを足す、というより、ロックンロールそのものを大きな装置で鳴らそうとしている感じがある。だから初期ELOがプログレ寄りに語られるのも分かる。
ただ、その実験性が、だんだんジェフ・リンの手によって整理されていく。
混沌としたオーケストラ・ロックから、より洗練されたポップへ。
重たい実験から、光るメロディへ。
そして、その流れの先に『ザナドゥ』の眩しいELOサイドがある。
そう考えると、『ザナドゥ』は突然出てきた軽いサントラではなく、ELOが積み重ねてきた音の実験が、いちばん分かりやすくポップに開いた場所だったんだと思う。
MA)ELO初期の2枚はロイ・ウッドの世界だよね。その後のELOの聴き方とはちょっと違うけど、好きだよ。
ロイが抜けてからジェフ・リンの洗練された音に変化してゆく。『アウト・オブ・ザ・ブルー』が集大成かもね。集大成のその先に『ザナドゥ』。
先生)その整理はすごく分かりやすいね。
初期ELOには、ロイ・ウッドの混沌がある。クラシックをロックに持ち込むというより、ロック、クラシック、ポップ、奇妙なユーモアを一度にぶち込んで、何か得体の知れないものを作ろうとしている感じがある。
だから初期の2枚は、後のELOとは少し聴こえ方が違うんだよね。
そこからロイ・ウッドが抜けて、ジェフ・リンの色が強くなるにつれて、音はどんどん整理されていく。混沌は残しつつも、メロディはより明快になり、ストリングスやコーラスも、ただ派手に鳴るのではなく、曲を輝かせるために配置されていく。
その洗練が大きく花開いたのが『アウト・オブ・ザ・ブルー』だったんだと思う。
あのアルバムには、ELOの持っていた壮大さ、ポップさ、SF的な浮遊感、職人的なメロディ作りが全部入っている。まさに集大成と言いたくなる作品だよね。
でも、MASAYUKIが言うように、その集大成のさらに先に『ザナドゥ』がある。
『アウト・オブ・ザ・ブルー』がELO自身の世界を完成させたアルバムだとすれば、『ザナドゥ』はその完成した音が、映画音楽という外の世界へ飛び出して、もっと明るく、もっと分かりやすく、もっと眩しくなった一枚だった。
ロイ・ウッドの混沌から始まり、ジェフ・リンの洗練を通って、ELOは巨大なポップの光になっていく。
『ザナドゥ』のELOサイドは、その光がいちばん素直に外へ向かって放たれた瞬間だったんだと思う。
MA)というわけで、今回はELOの『ザナドゥ』でした。
先生、私的ロック史的なまとめをお願いします。
先生)うん。では、まとめよう。
ELO&オリビア・ニュートン・ジョン『ザナドゥ』
――洋楽少年の理想郷――
『ザナドゥ』は、1980年に発表された映画のサウンドトラックである。
映画そのものを見ていなくても、このアルバムには強い映像感があった。内ジャケットの写真、オリビア・ニュートン・ジョンの眩しさ、そしてELOのきらびやかな音。それだけで、中学生の部屋に、どこか現実離れした光の世界が立ち上がっていた。
私にとって『ザナドゥ』は、3枚目に買った洋楽アルバムだった。
まだロックだポップスだ、サントラだと細かく整理していたわけではない。ただ「洋楽」であることが重要だった。ラジオから流れてくる英語の音楽を片っ端からエアチェックし、ジャンルも分からないまま浴びていた。
そのカオスの中で、実際に選んで買ったレコードは、結果としてロック寄りのものだった。
・クイーン
・ビリー・ジョエル
・そしてELO
言葉ではまだ説明できなくても、耳はすでに何かを選んでいたのだと思う。
『ザナドゥ』で私が強く惹かれたのは、やはりELOの音だった。「I'm Alive」の高揚感、「Don't Walk Away」の叙情性、「All Over the World」の祝祭感。どれもジェフ・リンらしい、明るく、人工的で、未来的なポップ・ロックだった。
そしてタイトル曲「Xanadu」。
歌っているのはオリビア・ニュートン・ジョンだが、曲としては完全にELOの世界にある。ELOの機械仕掛けの夢のようなサウンドに、オリビアの透明な声が乗る。その瞬間、作り物の理想郷に体温が宿る。
この曲は、ELOとオリビアが重なった幸福な一瞬だったと思う。
もちろん、中学生の自分にそれが全部分かっていたわけではない。むしろ当時は眩しすぎて、よく分からないまま聴いていたのだと思う。しかも、初めて針を落とした「I'm Alive」は、歌に入る直前で針が飛んだ。
泣きたくなるような欠陥だった。
けれど、CDで聴くまで、その針飛びバージョンが私にとっての正式な「I'm Alive」だった。音は理想郷なのに、手元のレコードには傷がある。その傷ごと、自分の『ザナドゥ』になってしまった。
このアルバムを共有できた相手も、ほとんどいなかった。
クラスの多くはツッパリや「なめ猫」で盛り上がっていた時代で、ELOの話など通じない。その中で、A君だけは分かった。彼から「ロンドン行き最終列車」を聴かせてもらい、こちらは『ザナドゥ』を貸す。
たった一人でも、同じ世界を覗いている相手がいる。
それだけで、洋楽の世界は一気に広がった。
ELOの歴史を後からたどれば、初期にはロイ・ウッドの混沌があり、そこからジェフ・リンの洗練へ進んでいく。『アウト・オブ・ザ・ブルー』でELOの世界はひとつの完成を見せ、その先に『ザナドゥ』がある。
『アウト・オブ・ザ・ブルー』がELO自身の宇宙を完成させたアルバムだとすれば、『ザナドゥ』は、その完成した音が映画音楽という外の世界へ飛び出し、より明るく、より分かりやすく、より眩しくなった一枚だった。
だから私にとって『ザナドゥ』は、単なるサントラではない。
中学生の耳が、ジャンルも分からないまま「洋楽」に憧れていた時期。
針飛びするレコードを、それでも何度も聴いた記憶。
A君とだけ共有できた、少し秘密めいた洋楽の世界。
そして、ELOの人工的な光が、最も素直にポップへ開いた瞬間。
それらが全部、このアルバムに重なっている。
『ザナドゥ』とは、理想郷の名前である。
映画の中の理想郷を、私は映画では知らない。
けれど、レコードから流れてくるELOの音だけで、その場所を知っていたような気がする。
洋楽少年にとっての理想郷。
ELO&オリビア・ニュートン・ジョン『ザナドゥ』は、私にとってそういう一枚である。

おわり